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いままで3回にわけて、複言語主義や言語レパートリーの考え方について書いてきました。


1回 日本語と英語は頭の中でどうわかれてるか
2回 言語レパートリーはひとりごとに違う
3回 複数の言葉が複合的にはたらくとは?

英語とこれからつきあっていこうとする人にとって、複言語や言語レパートリーの考え方をもつことが大事なのは、私たち自身の英語が複言語の中の一つであるからだけではありません。私たちが英語を使う相手、世界中のほとんどの相手の英語もまた、複言語の中の一つだからです。

フランス人、エジプト人、シリア人、南アフリカ人、メキシコ人、アメリカのいろいろな国のバックグラウンドをもった人たち、フィンランド人、フィリピン人、シンガポール人、タイ人、ベトナム人、中国人、インド人。。。みなさんがこれから英語を数十年使って生きていけば、ありとあらゆる国の人と英語でコミュニケーションをすることになるかもしれません。世界中の人が今、英語を国際的な共通語として使い、彼らの国の子どもたちも英語を学んでいるからです。

そして、その中で、英語しか使わない、英語の単言語だけしか知らないネイティブスピーカーは、世界中の英語を使う人の中では、絶対数として少数になります。

もちろん、英語はイギリスやアメリカでは母語ですし、彼らが長年かけて使ってきた英語の正しいスタイルや、ちょっとした「いい言い回し」にこだわりと誇りをもつのは当然です。彼らの母語としての英語は尊重し、敬意を払うべきです。私たちが日本語にこだわる気持ちと同じです。

けれども、英語だけしか使わない英語オンリーのネイティブスピーカーをモデルにして私たちが英語を勉強するのは、間違いだと私は強く思います。彼らの言語レパートリーは、英語がほぼ100%でできているのですが、私たちの言語レパートリーの最強部分は、日本語だからです。

英語が日本語の50%ぐらい強い日本人は、英語はぺらぺら、ほとんど苦労なしに英語で仕事をしていける人だと思います。もし英語力が日本語力の80%に匹敵していれば、英語の環境で何年も仕事や生活をした人でしょう。それでも、私のざっくりした感覚では、そんな人たちでも、日本語の方が圧倒的に直感的で、頼りがいのある言語であることが多いのです。

いつかその話をじっくりしたいですが、大人になって英語を使い始めて、英語が母語と互角のレベルとなり、かつ、英語を母語として使う人とアクセントや文法で全く差がない、というレベルに達する人はほぼいません。ヨーロッパ大陸から来てイギリスでずっと仕事をし続けているドイツ人やフランス人でも、そんな人にはめったに会いません。英語圏で数年仕事や学業をして英語ペラペラというレベルの日本人でも、ネイティブレベルは遥かに遠いと感じていると思います。

私は通算19年アメリカ・イギリスに住んで、二人のこどもは英語が第一言語ですが、彼らの英語力と私の英語力をくらべて、つくづくそう思います。ただし、私の日本語の方が圧倒的に強いので、言語レパートリー全体でみれば話は別です。

私もふくめ、ほとんどの人は、ネイティブレベルの遥か手前で悪戦苦闘するのです。

つまり、言語レパートリーの中で、英語が最強の言葉でない人は、世界では少数派ではありません。英語を使う人の多くが、圧倒的に強い他の言葉をひとつ、あるいは数個もつ言語レパートリーの中で英語を使っています。

家庭で父母と最初に話す母語と、学校で学ぶときに使う言葉が違う人も多いですし、国際結婚であれば家庭の中に複数の言葉があり、国を超えて移動すれば学校で使う言葉も変わり、仕事や生活で使う言葉も変わります。

その人の人生でどう言語をつかってきたか、そのパッチワークのような言語レパートリーを、世界の人がもっています。その言語レパートリーは、個人ごとに違い、世界の人がそれぞれユニークです。

その言語レパートリーの中で、英語が一番強い言葉であれば、英語が第一言語と言い、日常的によく使えば第二、第三言語と言い、日常ではほとんど使わないけど、外国でだけ使うのであれば外国語としての英語と呼びます。

このように多様な言語レパートリーをもった個人が、世界のどこかで集まり、英語で話すとき、英語は国際的な共通語として使われます。そこで話される英語は、英語の使い手のバックグランドによって、さまざまな言語を背景にもち、様々な国と文化の影響をうけ、英語力も、第一言語として最強である人から、ほんの少しの人まで、とりどりです。
まさに、そこでは、多彩な英語が話されるのです。
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私たちの言語力は、言葉ごとにわかれていない複合的な、「言語レパートリー」として考えようという、言語学の新しい考えについて、前回の続きです。

日本で育ち、日本の教育システムで学んでいると、授業以外で英語を使う必要性は、とりあえずほとんどない人が多いでしょう。すると、「言語レパートリー」は日本語が圧倒的に強い言語力をもつことになります。そのなかに、少し英語力があり、第二外国語もあるかもしれません。

あなたが日本語を使ってきた時間と英語を使ってきた時間を比較したり、日本語と英語の聞き取りや書く力、語彙を比較したりしたとき、日本語と英語の力はどのぐらい差があるでしょうか? 無理を承知で数値化して考えると、日本語力が100なら、英語力はいくつのイメージでしょうか? あるいは、あなたの英語力は、あなたが小学3年生や6年生の時のあなたの日本語力と比べて、強いでしょうか、弱いでしょうか?

たとえば、日本語が100としたら英語は10、小学校6年より言語力は弱いと思った25歳の人がいるとします。この人が言語レパートリーのほぼすべてが英語だという英語のネイティブスピーカーと仕事をすることになったとします。日本のビジネスパーソンを太郎さん、アメリカのビジネスパーソンをGeorgeとよびましょう。

太郎さんは、苦労はするでしょうが、仕事ですから、メールでなんとかGeorgeと仕事の条件を交渉し、契約条件を詰めていくことはできるでしょう。こんなひどい英語でいやだと思いつつも、仕事ですから、辞書を引き、上司や同僚に相談し、あるいは英語のネイティブの添削をうけて、メールを書いて読むでしょう。この仕事で一番難しいのは英語ではなく、ビジネスの環境や、太郎さんのオファーするビジネス条件の中身です。

なぜ太郎さんは、英語でなんとか仕事をできるかといえば、英語のコミュニケーションをするために、日本語力を駆使して調べ、相談し、要点を整理し、交渉すべき事項をまとめるからです。太郎さんは、自分のコミュニケーション力の10%だけを使っているのではなく、「言語レパートリー」を総動員するでしょうし、その大部分は日本語です。相手のGeorgeさんは自分の「言語レパートリー」の一番強い英語を使っているのですから、Georgeさんと互角に仕事をしたければ、当然のことです。

反対に、もし太郎さんが英語でしか考えず、英語でしか調べず、日本語は絶対使わないとしたら、太郎さんはGeorgeさんと互角に仕事ができるでしょうか。

私は日本のビジネスパーソンの英語での仕事の経験談を聞いてきましたが、アメリカやイギリスの駐在経験が長い人でも、英語で仕事をする際に、英語だけで考え、調べ、コミュニケーションをする人にはほとんど会ったことがありません。早い時期に英語に触れた帰国子女や学生時代までに英語圏での生活をしたなど、英語と日本語の力が拮抗している人は別として、日本語が圧倒的に強い「言語レパートリー」をもっている人は英語のコミュニケーションの影で日本語が大きな役割を果てしています。

今まではこうした言葉の使い方は、海外の言語学の主流ではほとんど研究されず、むしろ「英語学習」を妨げるという考え方が強かったように思われます。一方で、日本の学校英語では英語のリーディングは、英語の文章を日本語に置き換え、翻訳することが中心でした。日本では近年この翻訳中心の英語リーディングが批判されていますが、これに代わる効果的な英語リーディングの方法が普及していないように思います。英語の文章を日本語の助けなしに理解することが、ほとんどの日本人にとって、可能なのか、その方法がわからないからではないかと私は感じています。

複言語的な考え方や、「言語レパートリー」の観念は、まったく新しい概念が生まれたのではなく、言語の見方が変わったのです。今まで普通におこなわれてきた複言語的な言語使用を、異端視せずに、言語学的に見直すということです。

ひとの言語力は言葉ごとに分けて考えるべきだとう今までの言語教育の主流の考え方から、言葉は相互に影響し複合的に使われるという複言語観への発想の転換を受け入れると、英語学習や英語の使い方を柔軟で実践的に考えることができると思います。

最新の言語学では、ひとりの人がもっている複数の言語がお互いに影響しあいながら、複合的にはたらくという複言語的なアプローチが台頭していることを紹介した記事の続きです。

この新しい複言語的な考えを革新しているのリーダーの一人がJan Blommaertで、彼は多民族・多文化が進むヨーロッパでグローバル社会における言葉の使われ方を研究してきました。

Blommaertは、言語の力について2つの基本的な主張をしています。まず、ひとの言葉の力は常に不完全で、欠けたものだと言います。さらに、ひとの言語力はその人が使ってきた言語の歴史を反映して、地層のように積み重なったもので、ひとりごとに違う言語力をもっていると指摘します。
(彼の著作の103ページあたりに詳しいです)

日本語を母語としてずっと使い続けてきた私も、知らない日本語はたくさんあります。英語を教えているので文系や教育関係の言葉はよく知っていますが、医療用語や、土木用語は全く知りません。料理が好きなので、料理用語はよく知っていると思います。ただ食関係でも、野菜の名前や調理法の語彙は豊富ですが、ワインや日本酒を語る用語は少ししか知りません。

ひとはその生活・興味や仕事によって言葉の力を養っていくので、たとえ母語の日本語でも、私の今までの言語生活を反映して、不完全で不均等な語彙しかもっていません。日本語がもつ膨大な語彙を完全に知っている日本人は、いないでしょう。Blommaertが指摘するように、人の言語力は、たとえ母語であっても不完全なのです。

私の英語力は、もっと偏っています。アメリカの会社で仕事をしていたので仕事の英語はよく知っているつもりだし、イギリスの博士課程で言語学を学んだので教育・言語学関係の英語は詳しく知っています。でも、医療や土木、理系の言葉はごく少ししか知りません。理科については、小学校レベルの基本用語、たとえば、光合成とか、脱皮の英語も知らないです。小学生の学習基本語は穴だらけですが、イギリスで子育てをしたので、小学校のPTAで使われる大人の英語はそこそこ知っています。イギリスの料理番組をよく見ているので、料理用語は普通のイギリス人より知っていると自負していますが、ペットを飼ったことがないので、ペット関連の英語力はゼロです。

私は、遠い昔中国に3年暮らした経験があり、中国語を一年大学で勉強し、2年仕事で使いました。普段は、私の中国語は眠っているようなもので、忘れ切っていました。2月ほど前、突然20年以上ぶりに北京に行き、タクシーに乗ったら、運転手さんが中国語しかはなさず、突然私の中国語が蘇りました。レストランに行ったら、お勘定という中国語が、突然頭に浮かびました。私の言語レパートリーの地層の中の、中国語が動き出したのしょう。

日本人で、英語と中国語を外国語として使える人はたくさんいるでしょう。でも、それぞれの人の3つの言葉のどの分野が強く、どの分野が弱く、どのぐらいの力の差があるかは全く違います。世界に目を転じても、日本語・英語・中国語のトライリンガルは世界に数限りなくいても、それぞれの個人の言語レパートリーはひとりひとり違います。 私とまったく同じ言語レパートリーをもっている人は世界に私一人です。ひとの言語レパートリーは、その人の今までの生活、仕事、趣味など言語を使ってきた歴史を反映して、それぞれにユニークなのです。

ひとの言語力が、その人が使ってきた言葉の歴史を反映していると考えると、私たちの言語力観が変わると思います。たとえば個人の英語力は、その人が使ってきた英語の歴史の地層だと考えることができます。学校で散々英語を勉強してきたのに、スーパーの買い物も英語でできない、とショックを受けるという話しを聞きます。

でも、それも当たり前です。その人が、それまでスーパーで使う英語を使った経験がなければ、スーパーの言葉を知るはずはないのです。仕事で英語を使ってきて駐在で海外に行ったら、日常生活に困った、というのも、それまで日常生活の英語を使っていなければ、当然でしょう。英語が使えなくてびっくりしたら、スーパーの英語を使う経験を通して、学べばいいだけです。はじめて英語で医者にかかるときは、病院の英語をあらかじめ調べ、準備するのが大切です。

日本語を学んだ長い経験をもつ日本人の私たちは、日本語をやさしい子ども語から大人の言葉へ、日常語から専門用語へと日本語力を広げてきました。でも、外国語の英語は、いきなり大人の言葉や専門用語を勉強して、使い始めることが多くあります。ついつい、大人の専門用語を英語で使えれば、子どもの言葉や日常語も話せるはずだ、と暗黙の期待を持っているかもしれませんが、その言葉の経験が抜け落ちていれば、使えなくて当たり前です。

自分の言語力は、自分が言葉を使ってきた歴史が地層のように積み重なった力と考えると、自分の言語力の強さと弱さがはっきり見えてくると私は思います。
英語脳という言葉をよく聞きますが、私たちの頭の中には英語だけを使う英語脳と、日本語だけを使う日本語脳に分かれているのでしょうか? 

ずっと長い間、言語学では、私たちの言葉の力を、日本語・英語・中国語などとわけて研究の対象としてきました。Aさんの日本語力、英語力、中国語力と、独立した3つの言語力を別々に研究したのです。また、日本語と英語をまぜて使う人は、日本語が英語の影響で乱れているとか、英語に日本語の干渉が現れていると、悪いことだと決めつける傾向がありました。

ところがここ10年で急激に、人間の言葉の力は、その人が使えるすべての言語の力が複合的に作っている言語力である、人間の言語力は言葉ごとに分かれていないという考え方が、言語学界に台頭しています。これをマルチリンガルアプローチとか、複合的言語観とよびます。

英語で話そうとして語彙や表現が浮かばないと日本語がパッと頭に浮かぶ。英語で込み入った考えを説明しようとするときまず日本語で頭の中を整理する。英語で書く時日本語で下書きをしたくなる。誰でも知っている英語と日本語が交差する経験は、人間の言語力が何語という言葉ごとのシステムにわかれていないことによる自然な現象だ、と考えるのです。

この考え方にはいろいろな学者がいろいろな名前をつけていますが、私はオランダのTilburg大学の Jan Blommaertの提唱する「言語レパートリー」という呼び方を使ってています。彼がThe Sociolinguistics of Globalizationという本で論じた言語観に多くを学んだからです(いつかこの点も、詳しく紹介したいと思います)。

マルチリンガルアプローチは、今までヨーロッパ、オーストラリア、アメリカなど、多言語が日常的に使われる地域から積極的に提唱されてきました。多様化が進んだ社会では多くの人が多言語を使い、日常的に多言語をミックスして使うことがごく当たり前だからです。

たとえばイギリスの移民家族では、学校では英語で学び、家では出身国の言葉で話すことが多いのですが、家族の会話は往々にしてミックスです。たとえばイタリア人とスペイン人が結婚してイギリスに住むと、その家族の会話には、イタリア語とスペイン語と英語がミックスになります。

複数の言葉が混ざって、ポンポンと当たり前のように会話が進む様子を、ヨーロッパ、オーストラリア、アメリカなどで研究してきた様々な研究者が、同じような結論を出しました。人間の言語力は言葉ごとに分かれていない、むしろ、複合的で、お互いに深く影響しあっている、と。

そもそも、たった一つの言葉しか知らない「モノリンガル」と、複数の言葉を使う「マルチリンガル」の脳の働きを同じように考えようとしたことが、間違だったと考える言語学者が増えているとも言えます。「マルチリンガル」には、英語と日本語の二つの「モノリンガル」の脳があるのではなく、英語と日本語が影響しあって複合的に働く「マルチリンガル」の脳があると考えます。

この言語レパートリーという考え方は、日本人の英語を考えるとき、画期的なほど大事な発想の転換だと思います。
ブログに画像がないと寂しいので、英語の古い絵本の挿絵をはさんでいこうと思っています。

著作権が切れた古い本は、インターネット上に無料で公開されています。
私はThe Internet Archiveという、Non Profit Organizationが集めている本をまずは使っています。
しばらくは、Kate Greenawayというビクトリア時代の英国ベストセラ女性イラストレーターの挿絵を使います。
1846年、およそ150年前に生まれた女性です。

Kate_Greenaway00.jpg

  
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